現代の名工が語る、節句の話

節句の記事一覧

雛人形 なぜ15人か?

雛人形 なぜ15人か?

なぜ15人か?

- 込められた心を考える -

 ひなだんという呼称は、雛段飾りからひとり旅をして、国会議事堂のひな壇や、さまざまな会議場お祭広場のひな壇であったり、構築物や事象の形容にも用いられて活躍。地についた日本語としてひとり歩きをしている。そのことを考えると、雛づくりにたづさわる者として肩身の広い思いがする。

そして、その仕事に自信を持ちたいものだと思う。

雛は日本国有のもので、世界に冠たる人形の文化として誇りを持ち続けながら仕事をしていきたいものだと思うのだ。かつて、米国の民族学者F・スタール博士はそのことに触れ、ついで日本人は誰もが雛と人形のちがいを知っている、と指摘されていたのは随分と昔になる。

心の時代が唱えられて久しいが、天竜寺の平田晴耕老師は、心を考える時代だとおっしゃる。今こそ長く受け継がれた雛をわが国固有の文化として捉え、祖先たちの注いだ心を知り、雛に込められる心を考える時代が到来しているといえるだろう。

ひなまつり、雛の節供の由来については、いろいろな解説がなされ、その発展の経緯に関し幾多の考証があって、ひとつ、雛学と呼んでもよいのかも知れないほどだ。しかし、ひなまつりの祭神にあたる雛段飾りが、かたちを整えて今日の発展を見た現在でも、そのかたちの主役というべき十五人揃の構成は、単につよい民俗信仰に支えられ、普及してきたと思われるだけで、そのはじまり、その人数の定着にふれた文献資料、その解明などは見当らない 人形史の流れのうちでいわば、盲点といってもよいだろうか。その数の根拠を訊かれて雛飾りに注がれた心を知って、その答えは用意されたい。

十五人揃雛段飾りには、すぐれた様式美があり、その構成にはひなまつりの完成された文化の香りさえある。正統派の雛飾りとして、雛人形にたづさわる者はあらためて認識を深め、自覚しなければ、ゆめゆめ業界の発展はゆるされまい。

すぐれものだけが時代を超えて残るのは真実だ。憶測が許されれば、十五人揃発祥に思いを寄せたい。

雛人形  菱餅の三重 雪のいざない 

雛人形  菱餅の三重 雪のいざない 

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 大阪は新世界のシンボルになっている通天関の天辺(てっぺん)には、お供餅のようにも映る、天気予報のネオンが点灯している。
 ずっと以前から、つぶさにその様子を見物したかったが、なかなかその機会に恵まれぬ。昨年十一月、名古屋で会った大阪の赤瀬さんにそのことをお話ししたところ、お住まいが近くだそうで、さっそく夜空に映る通天閣の姿を撮ってお送りいただいた。
予報のサインは
ハレ  シロ
クモリ オレンヂ
アメ  ブルー
 それぞれの色で天候が表示されるのが、とてもユニークだが、大阪地方ではめったに降らぬと聞く雪の天侯に、予報では一体どんな色を用いるのか、興味がそそられる。それはハレの予報に雪の色といえる白を使っているのと、実は雛の座のお供えものには欠かせぬ、菱餅に伝わる色づかいにことよせていたからである。
 春は三月十二支では辰の月、辰は水を表わし、自然界に水があふれて草木の生長を助け、動物の活動が促される月。和名での月の名は弥生。太陽暦ではほば四月と思えばよい。陽気に満ちたこの月の上旬には雪の降ることもあって、人々を驚かす時候でもある。春分も通り過ぎて三春の区分では季春と呼び、現今では晩春とか暮春ともいわれる時侯に当たる。殺伐とした話で恐れ入るが、史実として陰暦三月三日の降雪に桜田門外の変があり、雪の夜のできごととして名高い。
 節のものを供えたことから、節供という言葉が生まれた。
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 三月三日。 重三(ちょうさん)の吉祥も込められた雛祭の節日には、必ず桃の花枝が雛の座に供えられ、古い昔には、婦女の共に全(まった)からんの願いから、母子草(ははこぐさ)も蒸して用いた菱餅。のちには中国からの竜舌(りょうぜつ)ばんの古俗や蓬莱の吉祥、薬効も手伝い、その緑が邪気を祓う草とされる蓬(よもぎ)を用いた菱餅が、あか(桃)、しろ、あお(緑)の三つ重ねにして供えられた。
 三重の順序は、 一面の蓬草の上に雪が積もり、雪の大地には桃の咲く風情で、あかは桃の花の未来を知る吉祥、しろは純真清浄、あおは邪気を除ける象意が注がれ、三位一体の供え物とした。加えて菱の形は、足利将軍時代からの延命長寿を願う、歯固(はがた)めの儀式の供え台に並んだ菱形の餅にならってつくられたと考えられ、季節を謳った。三重の菱餅は、雛祭を代表する供えものとされてきている。
 はじめに触れた通天閣の天気予報の雪は、自身の色である白をハレにゆずり、奇想天外と思える桃色に点灯し、表示されるのは面白い。按ずるに菱台にのせ、雛壇に供えられる、三重の菱餅の色がさねに連想が働き、雪の上に散る桃の花を彷彿とさせるのは楽しい。
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雛人形 松風と高砂

雛人形 松風と高砂

 松のとれる正月、横浜能楽堂で謡曲の「高砂」が、 一堂に会した舞台と寄席の人たちによって合謡され、その模様は謡初の催しとして、恒例の年中行事への積み重ねがテレビで紹介された。近年とみに各地で盛んになりつつある「年末の第九の合唱に対峙するものにしようとする意気込みがあり、「日本の伝統文化にもっと誇りを持とう」との強い願いもあってのことだという。新しい世紀の歩みに、日本人が自国の文化を大切にする志向への魁(さきが)けとして、その試みには背中を押される思いがする。
 さかのぼると、お能のなかの「高砂」は、特に祝儀の席で多く謡われ、より多く人形の製作にも用いられてきている。それは松の葉音を神婚の語らいとする「高秒」が将軍家の徳川の姓、松平に因む松の能として、江戸城での謡初に謡われたところに由来している。諸大名を通じて各藩に普及した謡いは、長寿の夫婦「翁と姥の縁起」も手伝い、婚礼はもちろん、ほかのめでたい席に数多く謡われ、その祝意は武家社会のたしなみとして深く根を下ろし、さらに幅広い一般の階層での生活の節目に用いられる拡がりを見た。「高砂や 此の浦舟に帆を上げて 月諸共(もろ)ともに 出で汐の…」の祝い唄は、現在でも結婚披露宴や結納の席でよく謡われ、関西地方では結納の嶋台に高砂の人形が飾られる。また婚姻願望、その予祝の意が強く込められたひな祭りでは、その祝意を寿ぐとして「高砂」が浮世人形の部の筆頭として、お節句贈答には欠かすことなく用いられている。
 演能の正式な番組では高秒は初番目物に位置され、神曲とされる「翁」に対し脇能(わきのう)の呼び方もされる。その内容から神能の部に属し囃子座に大鼓が加わり、ひな祭りの五人囃子に見る、四つの楽器の並ぶ姿で上演される 高秒は室町の前期、およそ六百年の昔、二世観世太夫、申楽(さるがく)から現在の夢幻能を完成させた世阿弥(ぜあみ)元清により作られた。物語は九州の阿蘇神社の神主、友成(ともなり)が兵庫の高砂の浦を通りかかると、松の木の下を掃き清める老夫婦に出逢う。そこで高砂の松と住吉の松が相生(あいおい)の松であるいわれは、松寿千年の御代と夫婦相生を寿ぐ譬(たと)えとの語らいを聞く。そして私たちは高秒と住吉の松の精であることを明かされ、友成を住吉で待つ約束をうける。やがて友成も舟に乗り、住吉に着く。そこには月の光のもと、住吉明神が現れ、万代の御代と国土安穏を祝っての舞を舞う。物語からは航海の安全もうかがえて天下泰平、延年長寿、夫婦和合に加え、人生航路の船出に航海の無事安全の祝意も重んじられる。「ぬしや百迄 わしや九十九迄 ともに 白髪の生える迄」と唄われる俚謡(りよう)の相生白髪(ともしらが)は、高秒の姿としてよく知られる。翁の持つ熊手は財を集め、姥の箒(ほうき)は邪心を掃き清らかにする縁起として、相生白髪と熊手、箒の吉祥が喜ばれ、浮世人形としての高秒には松竹梅、鶴亀の吉祥も添える形での製作が通念となり、長く続いた。人の一生を通じると誰にも病と老いが待っている。健康でゆとりのある楽しみが持てる老境を過ごす望みは変わることのない永遠のテーマだろう。険しい海辺の地にも根を張り、風雪に耐え、その緑を絶やさぬ松の姿に昔から人々は畏敬の念を抱き、常緑の吉祥が尊ばれるなかで高砂の曲は生まれたに違いない。松の葉風を奏でる、あの葉元の二本一束の形状も、高秒の夫婦和合のいわれとして人々は見落とすまい。

雛人形 婚礼と雪洞 vol3

雛人形 婚礼と雪洞 vol3

その昔、上巳の節句に、生児男女の区別なく祝いをしていた事実も伝わっている。
 案ずるに、我が国の原始信仰に、人は誕生する時、肉体と共に霊魂を具えてくる。やがて、魂によって人の活動は促される。
 結婚し、霊魂が結ばれることで、生命は生まれ、死によって魂が肉体から抜け出すと信じられていた。
 懐胎から始まる人生の通過儀礼を考えると、人の誕生の一年は、実に厳格になされる。それは、魂のためになされるとさえいえよう。
 七ツ前は“神の子”といわれるが、それは魂の未熟を意味するのかもしれない。
 ひな祭りでは、女の子の魂や情緒と呼ばれるものの発育が促される。帯解きの祝いをするころには、難しい知識を正しく吸収でき反応できる社会人としての仲間入り(氏子(うじこ)入り)の素地ができあがる。情緒も安定し、“キレる子”など考えられない。

- 生児一人に一飾リ -

 さて、現代の初節旬では、祖母や母親や姉たちのおひな様を飾って祝うことに懸念がもたれているが、ひな祭りに寄せる本来の観念からいえば、お祝いする女の子の婚姻への願いは無視されることになるわけだから、“私のおひな様”、 つまり身祝いとしての各児一飾りの是非は、いうまでもない。
 誕生した女の子の初節句から、年毎のひな祭りを重ねるなかで、やがて、“私のおひな様”という想いが芽生え、強く意識される。、その想いは、日本人女性の誰もが経験することで、昔から脈々と続いてきている。そして女の子の一生を通して、“私のおひな様”にいろいろな思い出や出来事も封じ込められることになる。

(3)ひな壇の婚礼
- 雪洞は華燭の典の象徴 -
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 循環する四季の十二支の陰と陽(図解参照)。
春 少陽 一月(寅)、二月(卯)、三月(辰)
夏 老陽 四月(巳)、五月(午)、六月(未)
秋 少陰 七月(申)、八月(酉)、九月(戊)
冬 老陰 十月(亥)、十一月(子)、十二月(丑)

 十二支を演出したと考えたい六曲一隻の金扉風の前、おだいり様とおひな様は、日月の暈(かさ)ね紋様・繧繝錦縁(うんげんにしきべり)の畳をのせた浜床台に座る。
 その一対の台の間には、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみのみこと)二神に供え、御酒が瓶子(へいし)一対で三方に飾られる。これは結婚した夫婦とその家族や親族の絆を結ぶ陰と陽の神酒でもある。
 両側に侍る官女は、長柄の銚子、右側は提子(ひさげ)を持ち、中央は盃か蓬莱の島台を運ぶ姿で、華燭の典・式三献(ひきさんこん)の儀の模様を表している。そして雪洞は、華燭の典での夜陰の灯りを象徴したものといえよう。
 天(あま)の御柱(みはしら)を男神が左廻り、女神が右廻りをして美斗(みと)のまぐあいがある日本創世の神話に倣い、左の瓶子に雄喋(おちょう)、右の瓶子に雌喋(めちょう)の喋花形を飾る。
 二神に供えられた神酒は、まず雌喋の瓶子から提子に移し、次に雄蝶の瓶子の神酒をその上に注ぐ。さらに提子の神酒は、長柄の銚子に移され、盃に注ぐ。
 本来、両側の官女は神に仕える巫女(みこ)の姿で、未婚の女性のため眉があり、左の官女は口を開き、右の官女は口を結んでいる。
 中央の官女は待上臈(まちじょうろう)と呼ぶ年功を積んだ女性で、袿(うちき)を着て、眉がなく口を開けていのる。この女性は婚礼を司会し、祝詞(のりと)の口上を述べ、式三献の儀を進行させる。
 婚礼では、提子に雌喋、銚子には雄喋の蝶花形が飾り付けられるが、瓶子一対を入れて四丁(しちょう)を忌み、菱飾りがつく形式もある。
 宴席を同じ盃が一巡すると一献であり、廻る盃で一回(ひと口)飲むことを一度という。 一献の盃を三度に飲んで三献を重ねるので、三々九度の盃である。
 古代中国では、祝宴の席に人を迎える最高の礼が、九献であった。日本に渡りいつのころから、九献が三々九度の盃に転じたのであろうか定かではない。
ひな壇に嫁入り道具が並ぶ姿のひな祭りでは、初節句にはすでに次の次の世代の誕生をも願う心が込められているのだ。

雛人形 婚礼と雪洞 vol2

雛人形 婚礼と雪洞 vol2

さて、婚礼の刻限を確認できるものに、二代将軍秀忠のむすめ東福門院和子のお嫁入りの記述がある。和子は女御(にょうご)として元和六年(一六二〇)入内(じゅだい)しているが、午(うま)の刻(午前十一時~午後一時)に二条城を出立する流れの中で、和子の牛車は一つ刻(とき)を要して、御所郁芳(いうほう)門より新造の女御御殿には未(ひつじ)の刻(午後一時~三時)に到着。そこで休むこと数刻。亥(い)刻(午後九時~十一時)清涼殿に赴き、後水尾天皇と初めて対面し、次いで常(つね)御殿に渡り、三献の儀式が行われている(「女御々入内記」より)。
 古法に従った事録に接すると、亥の刻限、亥の月、神無月の婚礼、さらに華燭の典という辞(ことば)の由来にも想いが及ぶ。
 桃の節句。町雛として盛んな拡がりを見せたひな壇の最上段には雪洞が灯る。宵闇の暗がりにほんのりと浮かぶ男女一対の内裏雛。二段目に三人官女が控える姿は、ひな祭りとして日本人の誰からも愛されてきているが、実は婚礼の絵巻でもあった。初節句を迎える女の子のために、おだいり様。おひな様と称(よ)んで飾られる男女一対の内裏雛の姿には、やがては健やかに成人して、おだいり様のような素敵な男性に出会い、文字どおり三国一の花婿に恵まれるよう、そして豊かな結婚生活がかなうようにとの願いが込められている。
 つまり、初節句を迎えた女の子の形代(かあしろ、身代わり)とされるおひな様にとって、おだいり様は″赤い糸で結ばれている″将来の夫となる男性の理想像をないまぜにしている。

(2)ひな祭りに託された願い

 いずれにしても、ひな祭りでは初節句を経た女の子の身祝いとして、年毎の節句の度にひな人形に託して一年無病息災であることへの願いが込められてきた。
 人はよく、赤ちゃんには親を選んで生まれてくることができないというが、女の子が胎内で出遭った祖先の穢(けが)れ、遠い原始の祖先たちの畏(おそ)れを知らず知らずに受け継いできていることヘの修祓(しゅうばつ)の願いも、込められていたと考えられる。
 お祝いする女の子の成人に寄せた婚姻の願望が強く働いて、その予祝を重ねるなど、生命を宿す力のある女性の成長に対する両親、祖父母の思いはひな祭りに多くの願いを寄せている。
 もともとひな祭りは上巳の節句に包含される。五節句の上巳の節句は中国から流入したものだが、我が国では古くから巳の日の祓の思想が原点にあって、ひな祭りの祝いがなされてきた。
 巳とは蛇であり、冬眠から覚め、自然界に水が溢れてくる季節、蛇は自身の身体を脱皮して成長する。
 祖先たちはその姿の神秘を身殺(みそぎ)として感じ、災厄や穢れを我が身からそぎ落として、無病息災や清浄な心身を祈願してきた。ひな祭りの祝いが年中行事として行われるのも、蛇の脱皮擬(もど)きといえよう。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年2月号掲載

雛人形 婚礼と雪洞 vol1

雛人形 婚礼と雪洞 vol1

2000-01zu
(1)赤い糸で結ばれている私のおひなさま
 十月は陰暦では和名を神無月とよび、十二支で数えると亥(い)(猪)の月とよんだ。
 国中の神々は出雲の国に集まり、出雲以外の各地の神様の社(やしろ)は、神不在の月にあたる。それゆえ、神前での婚礼は無意味なものではと思えるのに、十月は婚礼のシーズンとされ、婚礼の知らせもこの月に重なりやすい。なぜなのか。そこには神無月の神不在を俗説として寄せつけぬほどの何かがあるのだろうか、興味をそそられる。
 そのことはさておき、婚礼の歴史を知るうえで、面白い記述がある。
 「婚礼は夜する物也。されば古法婚礼の時、門外にてかゞり火をたく事、上臈(じょうろう)脂燭(しそく)をとぼして迎に出る事旧記にある也。男は陽也、女は陰也。昼は陽也、夜は陰也。女を迎うる祝儀なる故、夜を用ル也。唐にても婚礼は夜也。されば婚の字は女へんに昏の字を書也。昏はくらしとよみて日ぐれの事也。今大名などの婚礼専ら午の中刻などを用る事、古法にそむきたる事也」。
 江戸期の『貞丈雑記』にある考峯で、祖先たちが婚礼にどう臨んでいたのかが分かる。ここで大切なことは、自然界の時の流れであろう。陰と陽の二元に対する思い入れである。
 一日に昼と夜の陰陽があるように、四季一年にも陰の季節と陽の季節の循環があり、その区分がなされる。
 月日や時刻まで十二支の数詞でよんだ昔、十月は亥(い)(猪)の月にあたる。陰暦での十月は、冬至がまわってくる子(ね)(鼠)の月を前に、一年では一番日脚が短く、夜長の時期。夜の陰の深まりが四季を通じて最も強く感じられる月であり、十二支最後の亥の月になっている。
 冬至を境にして日脚は少しずつ伸びる。陰極まれば陽に転ずるたとえの通りに、亥の月には冬至を前にして一陽来福という明るい伸展への願いがあったに違いない。冬の寒さを表したものに、「冬至、冬なか、冬はじめ」という気象用言があるが、亥の月に立冬があり、子の月に冬至が、丑(うし)の月に冬の了(おわ)りが告げられ、寅(とら)の月は(旧)正月。春がやってくるのに、寒さが続く。
 一日十二刻を十二支でよぶときにも、今日一日の了(おわ)りと明日の一日の一(はじめ)を意味した子の刻は真夜中で、夜の陰が深く、季節の冬至と同様、夜明け前の寅の刻まで夜陰が続く。ありていに申せば、四季の陰陽、昼夜一日の陰陽の区分を感じとり読み取るのは、平成の私たちにとって努力を要する。
(次号に続く)
「にんぎょう日本」2000年1月号掲載

雛人形 五人囃子の顔 vol2

雛人形 五人囃子の顔 vol2

1993-02zu
かくされた童男の理

 一から九までの数が、縦横斜め何れからもその和を十五にする魔方陣は、自然界の生命エネルギーの運行作用を示す洛書の図であることは以前にふれた。九つの数はそれぞれに色彩名が割り当てられ、人の星ともされて九星と呼ばれる。目には見えぬ時間や空間、つまり季節や年月時刻、そして中心や各方を陰と陽二元の原理に基づいてその数を配分し、各々の数に天地間の現象を置き換え、綿密な天文観祭を経てその一つ一つに象意が見出されている。これが洛書に示されて八卦と呼ばれる。「乾は天なり故に父とす」「坤は地なり故に母とす」というように、八卦は人間関係に置きかえ、さらに「乾坤に六子あり」Lして三男三女がそれぞれ位置され、少男つまり童児は洛書九星図の八白に象徴されている。

 九星のそれぞれに、さらに十二支が配当され、八白の位置は、丑寅うしとら方角で北東、時刻の丑寅はおよそ午前一時から三時、年前三時から五時をさし、丑の月は旧暦の十二月、寅の月は旧暦の正月をさす。季節に当てると、丑は冬の強い寒気であり、寅は春への移行の時に当たり、八白には変化宮つまり陰極まって陽に転ずる進展の象意を見ることができる。

 さて、十二支は本来植物の発生・繁茂そして伏蔵という循環の様子を示したもので、植物が種から始まって実を結び、新しい種を宿す状態を表わす。子は完了と一はじめを意味する種子の状態、丑は種子内で紐状に変化する様子、寅はうご(虫へんに寅)めくで地上への発芽の時とされる。

 一日の時間の流れの中では、草木も眠る丑満どき夜の闇が極まって暁に変わる刻限が寅の刻、人間の一生に見立てると母の胎内の暗黒から分娩があり生命の誕生。そして心身ともにめざましい発育を見るこの時期は童児の姿に象徴され、陰の極まりから陽への進展を司る姿として位置づけられている。

 十五人の揃雛の中で五人囃子にのみ童児形が用意されたのは、八白の象意によるものといえる。初節句には生命誕生の謳歌、成人ヘの予祝、女児の心身の新生成長進展を節句ごとにはやす。そうした役割にかくされた理は八白童男の象意であり、明治の改暦以前千余年にわたって我が国の人々の生活の隅々まで浸透した十干十二支九星など、陰陽思想の哲理だともいえる。

 いろいろな祭によせる人々の心は、その祭の行事のあり方もさることながら、祭にかくされた理でもある。理を求めずしてひなまつりの本来は、やがて失われるときが待っていよう。

 完成された形のひなづくりによせた何代にもわたる先輩たちの苦心や智恵は今でも生きている。現在その仕事にたずさわる私たちが、単なる商品と同様の製販にあたるのは、祭具としての雛本来の伝統の崩壊につながる危倶の念にかられてならない。

「にんぎょう日本」1993年2月号掲載

雛人形 五人囃子の顔 vol1

雛人形 五人囃子の顔 vol1

1993-01zu
地蔵の剃髪童顔

東大寺大仏殿の真ん前の中庭に、唯一創建当時のものとされ、天平時代の優れた文化を今に伝える金銅燈篭がたっている。

この燈篭のレリーフの美しい音声おんじょう菩薩は、童顔の姿である。盧庶那仏るしゃなぶつの正面に立つ灯りは、仏への観想の世界による配置と思われるが、私にとっては五人囃子の童児形を考える嚆矢となった。

本尊に対する声明しょうみょうの流れ、そして童顔の菩薩の姿は、対雛と五人囃子の配列を彷彿とさせる。

五人囃子の子どもの姿の果たす役割に想いを巡らすと、私たちの身近には、日本人の誰もが知っている地蔵菩薩の姿があるのに気づくだろう。

菩薩像は儀軌によって頭に宝髻ほうけいを結い、宝冠を戴き、体には瓔珞ようらく、首飾り、臂釧ひせん、腕釧わんせんそして足釧をつけ、天衣てんね、 条はく、もすそ(裳)をまとう姿が常だが、大地の慈愛の顕現とされる地蔵菩薩だけは剃髪童顔、そして衲衣のういの姿で人々の信仰をあつめている。お地蔵様と呼ばれ童謡や俚謡にうたわれ、最も親しみの深い仏といえる。

地蔵の功徳はこの世に止まらず、あの世にあっても救いの手をさしのべ、現世来世に及んで人々の魂を救ってくれる。賽さいの河原の造塔功徳をうたった地蔵和讃など、親に先立つ子どもの哀れが、聞くものの心を揺さぶり涙を誘う。子どもの守り本尊とする地蔵信仰の定着も、子どもの命への親の思いの深さによるものといえる。

さて、人の一生についてこの世に生を享けた、つまり懐胎がなされたときを生有、生存の間を本有、死期を死有と呼ぶ。また、現世から来世へと次の世に生まれ代わる七七、四十九日をさして中有と呼んで、その世界では魂魄がさまようとされるが、故人の霊魂を救い、浄土へ導くとされる仏が地蔵だ。ことに親に先立って迷い悲しむ子どもの魂を救ってくれる仏ということで、人々の祈願は絶えることがない。

そのためか、地蔵の縁日は毎月二十四日だが、盆の二十四日に行う地蔵供養は、地蔵盆と呼んでいまも子どもたちの手で行われてきている。

お地蔵様と呼んで親しみの深い地蔵信仰は、宗教を離れて強い民間信仰として生きている。頭を丸めた姿の地蔵の童顔の姿は、五人囃子の童児形を考える際、見逃すことが出来ない。

五人囃子の童児形については、幼児の無心の姿を最先に考えてみた。その無心とは清浄ということばに置き換えられようか。五人のお囃子には幼児の清らかさが望まれたのである。清浄こそ、人の霊魂の姿ということが出来る。

(つづく)

「にんぎょう日本」1993年1月号掲載

1993-01zu

雛人形 五人囃子について

雛人形 五人囃子について

1992-12zu
成長への儀礼

 生旺墓の理によってみると、誕生から成人までの期間は、生まれる、つまり“生”の部分に当たる。肉体の成長と共に生霊の増殖する養育期であり、受胎あってから帯祝・産褥見舞・命名式・宮参り・食初めなど、誕生にまつわる儀礼があり、初節供が終わると現在の七五三に相当する髪置(かみおき)、つまり髪の伸ばしはじめを祝う儀礼が行われた。男女とも、三歳の陰暦十一月十五日に菅糸でつくった白髪をかぶらせるというものだ。

 また、三歳から五歳の間に髪の先を肩までの長さで切りそろえる儀礼があり、陰暦十一月十五日碁盤の上に子供を吉方に向けて立たせ、仮親(その子にとって信頼できる他人になって貰う)が盆の上に切り落とされた子供の毛に少し鋏を入れ、川へ流す深枇ふかそぎの儀礼がなされる。

 男子は五歳から九歳までの間に、女子は七歳の十一月の吉日に帯直おびなおし(帯解き)の礼をする。小袖の付紐を取り除き、紐のない小袖に帯を結ぶ儀式をする。男子の元服は幼名をやめ、烏帽子をつけ成人の服を着、髪を結い冠をかぶる儀式で十二歳から十六歳位までの間に行われたが、江戸時代の武家は男子十七歳霜月十五日に初冠(成人式)を行って男髷に改め、幼名を成人としての実名(烏帽子名)に改めて元服がなされた。

 女子の成女式は鬢枇びんそぎといい、十四歳から十六歳までの間の六月十六日に鬢の先を切る。鬢先を切る役を鬢親といい、碁盤の上に吉方に向かって立たせて鬢を切り、生年月日と名前を書いた紙を川に流す。式が終わると鉄漿おはぐろをつけ、眉作りをして大人の姿になり、式三献を行った後、祝宴が催された。

 男女とも成人の式が済むと、肉体も生霊も完成され、活動期“旺”に入り、旺んに活躍することになる。そして男女の霊魂が結ばれる。因みに、大宝令制では男十五歳女十三歳で結婚が認められている。

 このように衣裳と共に髪形かたちは社会秩序の上で重きがおかれた。成人後の髪型,髪結の形にはいろいろな約束が込められ、身分・年齢・職業など男女ともその分類は多岐にわたった。そんな中で幼児は埒らちの外におかれ、幼児期の髪形には自由さがあったといえる。

 五人囃子の童児の髪形は、その自由さを象徴したものといえる。江戸期以前の文化の移入は中国からの影響がほとんどといえる中で、唐児からこの髪形には雛ひいな本来の可愛さ、あいくるしさを認め、幼児の髪形へのあそび心や楽しさを求めたといえる。それは往時のハイカラ指向のあらわれかも知れぬ。唐児からくり人形に伝わるようにその姿には軽業を彷彿させる身軽さを認め、無事成長のための子供らしさ、活発さを五人囃子の生やす意味に込めたものといえようか。

「にんぎょう日本」1992年12月号掲載

雛人形 対雛と五人ばやし

雛人形 対雛と五人ばやし

1992-11zu
対雛と五人囃子

 江戸時代の半ばを過ぎると、雛飾りに対雛と五人囃子、そして雛道具は飾り方の組み合わせとして絶対的という観念が強く流れるようになった。時を経て昨今、雛段飾りの簡略化された形は、対雛に三人官女を加えて五人飾り、さらに随身を飾って七人飾りといった風だが、明らかに女児の無事成長を祝う呪術としての意味合いは薄れてしまっているといえる。

 宝暦九年に江戸では京雛の移入が禁止されるが、幕府の為政の故もあって宝暦以降は江戸文化の権立期とされる。その頃が現今の座雛の完成期ということができる。 古今雛こきんびなの創作者といわれる舟月や五人囃子の作者として名匠といわれた玉山の出現がある。

 雛づくりの仕事上では特に五人囃子に想いをひかれる。そこには座雛の雛飾りの構成の本来があるからだ。宇宙を構成する五大五行(五気)のもとで五季の気候は春、夏、秋、冬、土用であり、目で見る五色は青、赤、白、黒、黄であり、天地間の生類は霊長たる人間、獣、禽、虫、魚を指す。人間には五体(頭、両手、両足)、五臓(漢方でいう肝、心、脾、肺、腎)、五指、五感(視、聴、味、嗅、触覚)、五欲(財、色、食、名誉、睡眠)があり、口で知る五味(甘、酸、辛、苦、塩辛い)、耳で聞く五音(あいうえお)もまた″五″に関わる。人間の踏む道にも仁、義、礼、智、信の五常の道があるといった往時の観念が込められて、五人囃子は必ず対雛と共に飾られた。

 五という極致は天地が創造し自然のものすべて五つで大極そのものの現れだと考えられた。関東風の雛で五人囃子の立袴(小鼓、羯鼓(かっこ))には踏み出し、踏み込みの伝統がある。十五人揃の中では歌舞伎の様式である六方を踏む態(さま)を入れて、唯一カの入った動態で運気の消長を示したといえるだろう。

 文化十年、江戸・中村座での上演に古今雛が取材されている芝居絵には、当時の歌舞伎の影響がしのばれる。古いところでは、鶏の故事がある。古事記に天照大神が天の岩屋戸に隠れた時、常世(とこよ)の長鳴き鳥として鶏が記されている。天宇受女命(あめのうずめのみこと)が空桶を踏みならし、鶏を集めて鳴かす。日本では鶏は夜明けを告げるために飼われ、最も親しみが深い一番(丑の刻二時)二番(寅の刻四時)三番鶏(卯の刻)の鳴き声で時を知る風習があった。皇祖天照大神を主祭神とする伊勢神宮の神使は、天の岩屋戸の故事により、鶏になっている。鶏には五つの徳があり、五羽を画いて吉祥とされる。夫婦と子供三人の組み合わせは家族の理想とされ、古来わが国では早朝の清浄を尊び、鶏の鳴き声は「東天紅」とされ、太陽を迎えるところから一日の家内安全も含めてその吉祥が表現される。天宇受女命は里神楽ではおかめであり、 火男(ひょっとこ、猿田毘古神)と向かい合って踊る。天宇受女命は大嘗祭や鎮魂祭に仕えて舞の始祖とされ、芸能、神楽の祖神とされている。五人囃子には五つの数に連ることどもを踏まえて、誕生したわが子のつつがない成長、幸せな結婚をという、対雛へ託された親の希いを対雛に促す力が与えられ、可愛いわが子の人生の幕開きの役も務める。対雛と五人囃子は誕生した女児の未来の幸せな家庭への予祝の形であり文字通りお囃しといえ生命の躍動、歓喜、奉納舞楽のすがたが見えかくれする。

「にんぎょう日本」1992年6月号掲載

雛人形 なぜ五人囃子だけ子供

雛人形 なぜ五人囃子だけ子供

五人囃子の童児形

 幼い子がしゃがんで遊んでいる。声をかけても振り向こうともしない。顔が汚れ、着ているものが泥んこになっているのに頓着がない。時間の経つことなど毛頭気にならない。こんなあどけない姿こそ三昧の境地なのだという。

 昔から中国では十才を幼、二十才を弱、二十才を壮、四十才を強、五十才を艾がい、それ以上は十才ごとに耆き、耄もう、たい背たいはい(たいという字は魚へんに台)というふうに呼んでいる。また七才は悼とう、五才は童どう、三才は孩がいということで各年代の呼称にそれぞれ想いがあった。そして悼と耄は、罪があっても刑を科すことがない、つまり幼児と老人は社会の外において見守ったという。

 いずれにしても幼児のあどけない無心のしぐさ、童心といえばその純真さ故に誰も憎めないし、むしろ尊いと思う。

 親王対雛を主役と考え、雛十五人揃の構成の中、組雛として欠かすことのできなかった五人囃子だけは、どうして童顔が用意されたのか、単に雛まつりの希い本願を、可愛い我が子の形代かたしろでもある対雛に穢けがれない幼な子の姿でうたい上げるためのものだったのだろうか。男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛は陳列されるが、五人囃子の組雛だけは唐子からこの童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ち、髪形の頭(しょう顔)が用いられてきた。

 五人の童頭は向かって左からどんずりに結ひ上げの鬢びん、大きく口を結んだ太鼓、髪がワンカ、やっこ鬢びんはり、口開きの形が大鼓おおかわ、どんずりに前下げ髪、長い下げ結びの鬢びん、ちょぼ口が中央に位置して小鼓つづみ、どんずりに長く下げ結びの鬢びん吹きよせ唇の笛、カムロの髪型で口開きが謡うたい。こうした一連の形でより広く使用され、昭和三十年頃までその形式は続いた。そしてその姿は当時はごく当然に扱われた。

 またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売され、御殿飾りや雛段飾りが十五人揃になるのを前提に自由で縦横な販売がなされた。

 やがて店頭での販売に、十五人揃の雛段飾りと飾り段用九品の雛具でのセット化販売の規格が拡がると、業界の隆盛期を迎えるが、従来の生産では間に合わず、他聞にもれず、五人囃子雛頭もワンカにやっこ鬢びんはり、つまり大鼓おおかわの型だけで五人一律の略式形がとられるようになった。十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は少し消え失せるかのような流れで現在に至っている(結髪・面相については頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平両氏にその確認を仰いだ)。

(つづく)

「にんぎょう日本」1992年11月号掲載

1992-11zu

雛人形 なぜ15人飾りか vol4

雛人形 なぜ15人飾りか vol4

五が十五を生む

 森羅万象、あらゆるものは生まれると成長を重ね発達をし、やがて旺んに活動し、最後は消滅し死に至る。これは動かすことのできぬ哲理で、生・旺・墓の語であらわされる。仏教の世界でいう三界の法も、親があり自分があり未来は子であるということも、三才とよばれる。過去・現在・未来という永遠の流れも生・旺・墓の繰り返しといえる。台風が発生し、次第に発達しながら大暴れをするが、やがてどこかで温帯低気圧に変化し消滅する。毎日の生活には夜明けが、そして日の出があり、日中があり、夕暮れ、日没があって、朝昼晩、つまり生・旺・墓となる。

 九星にみる九気の変化活動の流れの中で、本位図にあたるのが魔方陣であり、洛書と呼ばれるが、それは各星(気)のもつ本来の方位であり、各方位にはそれぞれ象意があることは前にも述べた。五黄はその中で中央太極に位置して、生・旺・墓をそして変化活動の栄枯盛衰をつかさどる帝王の星とされる。前号の九星の巡行循環の中で、本位図の位置を五黄土星が出て各方位に回座すると、この星の廻った方位が世にいう五黄殺の方位でその方位と中央を経て対する方位が暗剣殺の方位となる。本来土気のもつ生物を育む性質と共にあらゆる生命体を腐敗させてしまう力、つまり生殺与奪の力を恐れて大兇方位とされ、人々に忌避されている。このことは方ふさがり、方たがえなどの辞で源氏物語や他の古典に見られる。飛鳥時代に大陸文化が渡来して以来、千年以上にわたって我国の為政の中心はもちろん、兵術にも駆使されてきたのは、歴史の示すところである。本位図つまり魔方陣は、四方八方に大兇方位のない安定の時であり、魔方陣に生まれる十五の数の神秘をひな祭の呪術として用いたのであろう。

 十五人の考えが誕生した本位図の中で、四は巽そんの卦とされる。これには、整うの意味がある。生命の誕生は大極が生じたとみなされる。今年は八白が中央に回座する年だから、八白土星を大極とする人は、本位図を二廻り目の中央に入る前の年本位図四に八白が位置して整うのである。つまり生まれて十八年目に肉体も精神も旺んになり、大人の仲間入りをする。″十八才未満″にはこうした意味もあろうか。

 何れにせよ男女とも九星図の中央の時、この世に生を受け、二回目の中央に来る時成人し活動期に入り、生・旺の旺の部が始まる。特に女性には生命を生み出す力がある。子孫を絶やさぬという自然界の摂理を大切にする心がはたらいて女児の節供は良縁を得る。やがては母体になるための無事成長の願いが特に強いといえる気がする。陰暦で四月は巳の月である。巳の月をはさんで辰の月に上巳の節供があり、午の月に端午の節供があるが、巳は自然界では蛇であり、蛇が長い冬眠からさめ、脱皮をして成長する神秘に信仰が生まれ、五節供の儀礼と習合し、我国固有の節供文化に発展してきたと思える。毎年の節供には蛇の脱皮の擬(もど)きの意味があり、禊は水注ぎで身殺ぎ(脱皮)の意味があると思える。

 十干十二支九星などが盛んに用いられた時代を経てひなまつりは発展してきた。これをふまえず節供の意義をただすことはできまい。

「にんぎょう日本」1992年5月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol3

雛人形 なぜ15人飾りか vol3

1992-04zu
九星巡環

 魔方陣は古代中国の天文観察の中で生まれたといえるが、自然界に陰と陽の二元の気が充満して森羅万象をくり返し、止まないという考え方がその根幹をなしている。南北の線によって空間を三分し、東西の線によってさらに空間を二分して四分し、その四分された空間をさらに三分し、その四正四隅を入方位とし、中央を加えて九方とする。中央には大極天源の考え方があり、陰と陽の二元が相対して存在する考え方があって八方角に自然界の現象をあてはめて八卦が生まれた。相撲の行司が「はっけよい」と、声をかけるのはそのことからきているそうだ。状態は十分だ、頑張れと力士に休みない格闘を促す掛け声と考えるが、力士が力強く方円の上俵を踏みならすことで、神々に自然の季節の循環が順当にと祈願を促す呪いとしての意味もあるのかもしれない。

 八方位に自然界の見たままの現象をあてはめて考えた図に河図(かと)と呼ばれるものが洛書の以前に考えられており、これを先天方位という。また、九方に一瞬の間断ない自然界の変化活動のきまりとして現象をあてはめたのが洛書、つまり魔方陣でありこれが後天方位とされる。後天方位は人がこの世に生を受けてから死ぬまで自然が作用するものとされ、先天方位は人が母胎内にて受ける作用とされている。

 魔方陣は九つの数字を九星と呼んで人の星として考えられ、天象の活動作用を表すのはもちろんだが、人に作用し続ける変化活動の図とされている。九星の巡行は一界の循環が九年であり、九ヶ月であり九日間であり、さらに時刻もそうである。九星にはそれぞれ一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星という名称がある。魔方陣に図示された位置が本位であり、その図盤上の各方位の方象のもつ意味が九星のおのおのの象意となり、図示された各方位を循環する。つまり、一白は北、二黒は南西、三碧は東、四緑は南東の象意をもってのようにである。

 中央は五黄であり、太極とされ、各星が中央に回座した年が人の誕生の年にあたる。平成四年は八白が中央に巡るので、節分以降に生まれた赤ちゃんは、八白土星を本命星にもつ人として一生を過ごすことになる。ここで注意を要するのは、五黄土星が中央太極を出て八方位に回座する八年そして八ヶ月の間、強い兇方作用が生ずる。つまり五黄が中央に回座するとき人々の周囲に大兇方作用が及ばぬことになる。その図が本位図であり魔方陣となる。人々は魔方陣に生じる十五という数字に安泰を求め、自然界の作用の魔詞不思議をひな段の信仰の呪術にかえたと思えるのである。

「にんぎょう日本」1992年4月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol2

雛人形 なぜ15人飾りか vol2

1992-03zu
ひな15人は自然界の営みを表現

 科学万能の現代生活にあっても、多くの人々が年末年始の時期には、日記と共に運命暦を買い求める。運命暦は、あるいは毎年の定着したベストセラーといえるのかもしれない。そしてそれは、人々の誰もが心のどこかで明日への不安と闘いながら毎日の生活を続けている証といえるだろう。気やすめといいながらも、何かを心のより処にしたいのが人情というもので、そこには昔も今もない。深い深い心の底では、自然界の大きな営みの力を知らず知らずのうちに怖れているのかも知れない。

 魔方陣は、その大自然の目に見えぬ営み、運行作用を数字におきかえて具体的にし、その原理を示すもので、その数理の法則は四千年以上の時を経て科学万能の時代の今日に至っても万古不易、宇宙の鉄則とされている。

 魔方陣を構成する一から九までの数字はそれぞれの性質をもつ生命エネルギーと解釈できるが、一つ一つが独立して存在するのではなく、便宜的に九つの種類に分けただけのことで、一体となって、限りなく、循環作用し、自然界を支配することになる。私達のすぐ身の周りが電波や磁界作用、肉眼で見えぬ限りない色々な素粒子のとびかう空間であることを感じつつ、魔方陣の数字の各々の循環の順序と原子核を中心に廻転する電子の軌跡とが同じ様子だと聞かされると驚く。そして目には見えぬその作用を何となく理解することができるだろう。

 洛書は魔方陣が揚子江の治水の際に現れた神亀の甲羅にこの図が発見されたという起源に因んでつけられた名称といわれている。広大な国土を治めるために天文治水に心を砕いていた古代中国の話だ。

 魔方陣の縦、横、斜の各数の和が十五になるという摩訶不思議が雛飾りの様式にとり入れられたのは、江戸時代の後期と考えられる。江戸中期の奢多禁令を経て、座雛の形が小型を余儀なくされると、その見栄のために雛の数がふえ、調度も多種多彩となり、その飾り付けは拡がりを見せ、雛壇の定着、雛段数の増加があった事は容易に考えられる。明治の改暦以前の社会では、紀年月日は勿論、方角や時刻等々に干支があてられ、生活の隅々にまで及んでいた。また、徳川三代に仕え、その影響頗るだった天海僧上の天源術を始め、江戸幕府の為政にまつわる中国哲学思想の波及は、一般階層の魔方陣の魔訂不思議への理解が容易な土壌だったといえるだろう。

「にんぎょう日本」1992年3月号掲載

雛人形 なぜ15人飾りか vol1

雛人形 なぜ15人飾りか vol1

なぜ15人か?魔方陣の図

- 込められた心を考える -

ひなだんという呼称は、雛段飾りからひとり旅をして、国会議事堂のひな壇や、さまざまな会議場お祭広場のひな壇であったり、構築物や事象の形容にも用いられて活躍。地についた日本語としてひとり歩きをしている。そのことを考えると、雛づくりにたづさわる者として肩身の広い思いがする。

そして、その仕事に自信を持ちたいものだと思う。

雛は日本国有のもので、世界に冠たる人形の文化として誇りを持ち続けながら仕事をしていきたいものだと思うのだ。かつて、米国の民族学者F・スタール博士はそのことに触れ、ついで日本人は誰もが雛と人形のちがいを知っている、と指摘されていたのは随分と昔になる。

心の時代が唱えられて久しいが、天竜寺の平田晴耕老師は、心を考える時代だとおっしゃる。今こそ長く受け継がれた雛をわが国固有の文化として捉え、祖先たちの注いだ心を知り、雛に込められる心を考える時代が到来しているといえるだろう。

ひなまつり、雛の節供の由来については、いろいろな解説がなされ、その発展の経緯に関し幾多の考証があって、ひとつ、雛学と呼んでもよいのかも知れないほどだ。しかし、ひなまつりの祭神にあたる雛段飾りが、かたちを整えて今日の発展を見た現在でも、そのかたちの主役というべき十五人揃の構成は、単につよい民俗信仰に支えられ、普及してきたと思われるだけで、そのはじまり、その人数の定着にふれた文献資料、その解明などは見当らない 人形史の流れのうちでいわば、盲点といってもよいだろうか。その数の根拠を訊かれて雛飾りに注がれた心を知って、その答えは用意されたい。

十五人揃雛段飾りには、すぐれた様式美があり、その構成にはひなまつりの完成された文化の香りさえある。正統派の雛飾りとして、雛人形にたづさわる者はあらためて認識を深め、自覚しなければ、ゆめゆめ業界の発展はゆるされまい。

すぐれものだけが時代を超えて残るのは真実だ。憶測が許されれば、十五人揃発祥に思いを寄せたい。

(次回は魔方陣の図にその答えの一つを求めて―)

「にんぎょう日本」1992年2月号掲載

 

 

 

雛人形 お雛さまは、右か左か

雛人形 お雛さまは、右か左か

右か左かrf

一陽来福、今それは、歳旦の日の出の一瞬を指していうように思う。大晦日の暗闇の時間を待って、御来光を浴びた瞬間から年が改まる。人々は素朴に時の流れを感じ、白い息を見つつ太陽の光と熱に感謝の念を抱き、新しい力を宿す期待をもって手をあわせる。

しかしこれは、厳密には冬至を指していうことば。冬至の日は太陽が最も斜めに照らす日で、昼間が最も短いため、最も弱い太陽となるわけだ。その後次第に光と熱を増しながら、昼間が長くなってくる。太陽の光と熱は穀物の成長に欠かせぬものだし、人間の生活も明るい暖い春の光への期待があつて、冬至が一陽来福の日、その萌しを春に向ってつなぐ日とされた。

夏至から少しずつ夜が長くなり、陰極って陽が萌す原理で、冬至を年の始めとする冬至正月の暦が、中国の周の時代につくられている。

我国では明治の改暦以前、年号や方角、時刻などを十干十二支で表わした。十干十二支は植物の成長の様子を表わすものと孝えられるが、陰暦でいう十一月は子の月であり、五月が午の月となっている。子の字は陰と陽の交りを表わし、時刻としても昨日のおわりと今日のはじめが重なつて子の刻がある。

また、午は昼の十二時を指す正午として今でも使われている。地球上の南北を示すのは子午線だが、一年の冬至夏至を結ぶ線も十二カ月が円形に廻る図式では子午線と呼んで暦の上では大切にされた。

蓋、子午線は古代の中国哲学の原理である陰陽思想の要素の一つになっている。陰陽というとかび臭く・古い考えと思われるが、実は天文観察から生まれていて、意外に科学的で奥深く究められ、自然界の摂理を文字に置きかえて現代の我々が読んで新鮮に感ずることが多いのに驚く。十二月の図を陰陽で表わすと、子午線を軸に右まわりをすると右半分、つまり冬至(子)から夏至(午)までが陽の気候であり、午から子の月に向つて陰の気候になる。そして、一日の動きにもそれがいえる。

方角方位として考えると、子が北で午が南となり、十二支を配当すると東が卯、西は酉、北東は丑寅、南東は辰巳、北西は戌亥、南西は未甲となり、方位と時刻月次が同会する丑寅は鬼門、辰巳芸者、いぬいの蔵など、今でも時々耳にする。卯は東で、卯辰は太陽の昇る刻限だ。酉は西で陽が沈む。

人の世のさまざまが写し出されていると考えられる雛の世界にこのことを当てはめてみれば、対雛の男雛を陽、女雛を陰とする見方は容易だし、対雛の鎮座の位置の自然の姿が解る。因みに、何人も絶対に曲げることを赦さぬ仏像の儀軌によると、その左手は慈念手、右手は悲念手とも呼ばれ、仏教の原点の慈悲の心を意味する。慈は如来の心で父親の愛であり、悲は普く包む観音菩薩の心であり母の愛を表わすとされる。対雛の男女の位置について、右か左かどちらが本当なのか問答は多いが、数年来私はその答を迷わぬことに決めている。

「にんぎょう日本」1992年1月号掲載

 

 

 

ひな祭りと雨水について

ひな祭りと雨水について

何代も以前の祖先たちが、生活の基準として千年以上に亙、従ってきたもともとの原理に照らし、私たちに伝えられた数々の祭りや習わしを、読み取らねばならない。

初節句を迎えた女児のために飾るお雛さまは、毎年迎える雛節供に向けて少なくとも明治の改暦以前には、二月の春分彼岸会(中日をはさんでの三日間)が済むのを待って、雛建が(三月三日の節供に向けて、雛飾りをする)があった。

ごく最近、二十四節気で一月の節中雨水が雛建の日で、二月節気啓蟄の日お雛飾りをしまうのが昔から伝わってきた雛人形解説を聞く、しかしそのような説は、伝わっていないのが事実といえる。

明治の改暦後の暦では、正月の節気雨水が二月の月中頃にあたり、旧暦二月の啓蟄は、新暦では、三月の六日頃に当たるので、現在の三月節供に準じ当てはまる故と考えられるが昔からの言い伝えにあたらぬ。

大戦後かなりの期間、各年のお節句には、新暦の節供、旧暦の節供の地域が存在した(現在も旧暦や、月遅れの地域がある)。業界でも、新旧地域向けの対応が続いたのは、記憶に新しい事である。

ただ桃の節供の季節感は、昔の呼び方で三月は辰の月といい文字通り自然界に水があふれ草木が勢いよく大地を覆う。

上巳の節供の元々といわれる、巳(蛇)が冬眠から覚め命がけの脱皮をすることで成長をする姿の神秘を昔の人達は、吾身のけがれを祓うみそぎと重ね、生命を生む力を授かってきた女児の節供に結び付け、大切に女児の祭りとして祝ったに違いないと考える。

世代三代の意味 -七段飾りを読み解く13-

世代三代の意味 -七段飾りを読み解く13-

伊勢の遷宮の際に、新しい橋がかかると渡初式(わたりはじめしき)が行われます。

この渡り初めには全国から3世代そろった元気な夫婦が呼ばれます。老夫婦、子供夫婦、孫夫婦が新しい橋を東西に渡り、長寿の橋を祈願するのです。

伊勢神宮

世代三代の三人仕丁は、一人前になるまでの人間のあり方を伝え、長寿への願いをこめたものといえます。

彼らも三人揃ってこそ意味をなす、ひな壇の大切な組雛です。

世代三代と三人仕丁 -七段飾りを読み解く12-

世代三代と三人仕丁 -七段飾りを読み解く12-

ひな壇の五段目に並ぶのは、3人の仕丁です。仕丁とは貴族などの家で炊事や掃除などの雑役のことです。

向かって左から、口開きの怒り(中年)、泣きべそ(若い男)、箒を持った口開きの笑い(年寄り)と並びます。

 

この世代3代というのは面白いもので、人間をよく表しています。

例えば大工仕事でいえば、年寄りはお金も足りて仕事も足りて、物事を聴く力があり、教える力がある棟梁格なのでにこにこ笑っている。真ん中は、体は成人しても仕事はまだ半人前の泣きべその若者。そして怒っているのは仕事もできて一生懸命シャカリキになって働いている中堅。

三人仕丁はこの等に、時間の流れをもっている組雛なのです。

 

並び方は、中左右と言って、真ん中に一番偉い人、左に次の位の人、右に一番下の人という神道の並び方をしています。やはり向かって見ると左右は逆なので、若者、年寄り、中年の順に偉いことになります。

若輩者が一番偉いというのは不思議かもしれませんが、若いというのは未来に対する力を一番もっている存在ですので、若い方が尊いとしたんですね。

守護像としての随身(ずいじん) -七段飾りを読み解く11-

守護像としての随身(ずいじん) -七段飾りを読み解く11-

ひな壇の4段目、左右の端には随身が控えています。

随身というのは、高官の警護などをした武人のことです。左上位なので左にいる方が位が高く、向かって右の年配の姿が左大臣で、向かって左の若い姿が右大臣です。

向かってみると左右が逆なのでわかりづらいかもしれません。

 

武人である彼らは、狛犬や神社の門などにいる阿吽(あうん)像、随身像と同じような役割を持っています。

これらの一対の像をよく見てみると、一方が口開き、一方が口結びをしています。また、阿吽像は、口を開いている方の手は開き、結んでいる方の手は同じくぎゅっと握られています。

彼らは背後にいるもの(ひな壇であればおひな様とおだいり様)を守る守護像なので、陰陽の理を元にした結界を張っているのです。

 

以前にもお話ししましたが、ひな壇は向かって右が陽、左が隠として作られています。

随身もこれに従い、向かって右の左大臣は陽なので口開き、右大臣は隠なので口結びになっています。

今の五人囃子が同じ髪型ばかりの理由 -七段飾りを読み解く10-

今の五人囃子が同じ髪型ばかりの理由 -七段飾りを読み解く10-

組雛ごとに売られる方法は形を変え、やがて店頭では十五人揃の雛段飾りと、飾り段用九品の雛具でセット販売される規格が広がり、雛人形の業界は隆盛期を迎えました。

しかし、売れすぎると今度は従来の生産では間に合わなくなったのです。他聞にもれず、五人囃子の雛頭はみんな、大鼓の型が使われるようになりました。つまり、五人一律の簡略形がとられるようになったのです。

十五人それぞれの頭を用いた本来の伝統は、少し消え失せるかのような流れで現在に至っています。

 

私どもの作る雛人形は、今も五人囃子の顔は一つずつ変えています。なぜなら、五人の髪型には子供の成長への願いが込められているからです。

 

五人囃子がどうして童子の姿をしているのかについては、また別の回でお話ししたいと思います。

五人囃子の髪型 -七段飾りを読み解く9-

五人囃子の髪型 -七段飾りを読み解く9-

少し専門的ですが、五人囃子の童頭の形を向かって左から紹介します。

 

・大きく口を結んだ太鼓:どんずりに結び上げの鬢(びん)、髪がワンカ、やっこ鬢はり

・口開きの形の大鼓(おおかわ):どんずりに前下げの髪、長い下げ結びの鬢

・ちょぼ口の小鼓、どんずりに長く下げ結びの鬢

・吹きよせ唇の笛:カムロの髪型

・口開きの謡

(紹介した結髪・面相については、頭師としても長老である鈴木柳蔵、石川潤平氏にその確認を仰ぎました)

 

こうした一連の五人囃子の規格は広く使用され、昭和30年頃までその形式は続きました。

その姿は当時はごく当然のものとして扱われていました。

 

またその当時までは、親王、官女、五人囃子、随身、仕丁はそれぞれ組雛として桐箱や前硝子の飾り箱などに入れて販売されていました。

これは御殿飾りや雛段飾りが十五人揃えになるのを前提にして、好きなようにひな壇の十五人を集められるというもので、自由で縦横な販売がされていました。

ですが現在では、五人囃子の髪型はみな同じというものが広く販売されています。

五人囃子だけが子どもの顔 -七段飾りを読み解く8-

五人囃子だけが子どもの顔 -七段飾りを読み解く8-

さて、どうして五人囃子は童顔なのでしょうか。

親王対雛(おひな様とおだいり様)を主役とした七段飾りの雛十五人揃。その中でも五人囃子の組雛(幾つかで1まとまりの雛)は、ひな祭りを音楽で囃す、欠かせない存在です。

赤ちゃんの形代(かたしろ)でもあるおひな様・おだいり様のために、健康で良い一生を送れますようにと、穢れない幼な子の姿で五人囃子にうたい上げてほしい。そんな意味をこめたのでしょうか。

 

ひな壇には男女対雛を最上段に、三人官女がすぐ下の段、三段目に五人囃子、四段目は随身、五段目に供仕丁で十五人の雛が陳列されます。

その中で五人囃子の組雛だけは、唐子(からこ:中国風の服装や髪型をした子ども)の童顔が用いられ、他の雛たちには成人した顔立ちと髪型の頭(しょう顏)が用いられてきたのです。

幼児の無心の尊さと五人囃子 -七段飾りを読み解く7-

幼児の無心の尊さと五人囃子 -七段飾りを読み解く7-

幼い子のあどけない、時間も忘れて遊ぶしぐさ。声をかけても振り向かない、汚れても気にしない無心さ。

そんな三昧の境地とも呼ぶべき童心の純粋さは、誰も憎めず、むしろ尊いものだと思います。

雛人形の五人囃子は、こういった無垢な子どもの顔で作られることになっています。

 

昔から中国では、十才を幼、二十才を弱、三十才を壮、四十才を強、五十才を艾(がい)、それ以上は十才ごとに耆(き)、耄(もう)、たい背(たいはい:「たい」の字は魚へんに台と書く)というふうに呼んでいます。

また七才は悼(とう)、五才は童(どう)、三才は孩(がい)ということで、各年代に呼称をつけることで、その歳の人のあってほしい姿を表現しました。

悼と耄、つまり幼児と老人は罪があっても刑を科されず、社会のきまりの外において見守ったといいます。

五人囃子の子どもの姿には、そんな自由さも込められているのでしょう。